三国志「三顧の礼」 後漢の時代、劉備は自らが天下に覇を唱えるためには、軍師の存在が不可欠と考え、関羽と張飛を伴って、降中の諸葛亮孔明の家を訪問している場面です。このとき劉備達は諸葛亮には会えませんでした。 諦めきれない劉備はその後も訪問し、三度訪問してやっと出会うことが出来ました。 礼をつくした依頼で、諸葛亮は軍師となることを承諾しました。軍師を得た劉備軍はその後の戦いで勝利を続けることが出来ました。 日本で言われる「三顧の礼」はこのエピソードから生まれました。 |
三国志「千里走単騎」 劉備の義弟である関羽が、劉備夫人の甘夫人を伴って劉備のもとに駆けつける場面です。 劉備達は戦争中に離散してしまいました。関羽は世に知られた武将であったことから、曹操に請われて、一緒に離散した甘夫人とともに部下となります。その際、劉備の居場所がわかったら駆けつけることを条件としました。 劉備の居場所がわかり、甘夫人を伴って曹操のもとを離れるのですが、その際理由を知らない曹操の部下から襲われ、沢山の部下を成敗してしまいます。曹操は部下を成敗した関羽を許し、劉備のもとに逃がしてやりました。 このとき関羽が乗っている馬が、一日に千里を走るといわれた名馬「赤兎馬」です。 |
三国志「華容道」 魏の太守曹操を関羽が見逃す場面です。右側が曹操です。 呉の国との大戦「赤壁」の戦いで、曹操は100万の大軍を率いて戦いますが、呉と同盟した劉備の軍師、諸葛亮孔明の策略で大敗します。 落ちのびる曹操を劉備軍が追撃し、配下をほとんど失った曹操を、最後に待ち受けていたのが劉備の義弟関羽です。 本来であれば討ち果たし手柄をたてるべきところですが、関羽は曹操の部下として仕えた時に恩義があり、義理堅い関羽は見逃してやりました。 |
三国志「載江救主」 趙雲が劉備の子供阿斗を取り返す場面です。 劉備と甘夫人との間に長子阿斗が誕生しますが、甘夫人は戦いの中で他界してしまいます。その後劉備の夫人となったのが孫夫人です。孫夫人は東呉の孫権の妹で政略結婚と言われています。 孫夫人は母の病気見舞いに東呉に帰ろうとしますが、その際阿斗を連れて帰り、人質としてしまおうとしました。 これを察知した、劉備の部下の趙雲が兵馬を率いて船で追いかけ阿斗を取り返しました。 |
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