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u子の山陰便り 利休
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▲u子の山陰便り |
第40回直木賞は「利休にたずねよ」だった。
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第40回直木賞は「利休にたずねよ」だった。 島根に来てから茶道を学び始めた自称「茶人見習」としては気になる題名だった。 早速読んだ。 文章といい全体構成といいとらえ方といい斬新で読んでよかった。
千利休は秀吉の茶頭。 月刊penも今年の2月号で特集していてクリエイティブディレクターと持ち上げているが、簡単にいえばお抱えの「接待係主任」。天下人の秀吉の所には全国からの客が押し寄せる。 やっかいなことに武力を持っている人も大勢いる。 嫌っているのに従うようなふりをしながらやってきて、こっそり秀吉の目つきや態度を観察しては今後の動向を探ろうとする。 だから押しかけてくる客、反対に招く客、秀吉が嫌いな客などを刀も外に置いた茶室という小さい小さい空間で表情まで吟味しようかと秀吉はたくらむ。 その時、相手の人柄がどうなのか、そのためには「美意識をどう持っているか」が一つの指標で、興味津津だったのだろう。
茶の心はもてなしの心と「茶人見習」は日頃より師から稽古をつけられる。 もてなすからには、嫌いな食べ物は出すな、清潔な部屋に通せ、そして客が好む道具立てが要ると学んだ。 詳細にいえば和の集大成たる茶の道だから抹茶とお菓子と料理は当然、門から庭、待っているスペース(待ち合)、植木、蹲、光の加減や周囲の景色まで、一寸狂わず、しつらえよ、一期一会なりとのこと。 ただし、そうした緊張感がありながら、客には寛いで過ごして貰う。 ああ、大変!!である。
だが、茶にこだわりをもっている身は茶、利休、茶道具、和服、庭など興味は尽きない。 だから関連の本も雑誌も読むが、ずっと気になっているのは、秀吉と衝突して利休は切腹させられた後のことだ。 でないと、400年後に私は「茶道見習」になっていないのだから。こういう不肖の弟子が多い?ためか、京都の家元は弟子の育成のために講座を開いて数々の疑問に答えてくれる。
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3月に「宗旦(そうたん)の千家再興」という講義をきいた。 利休切腹後、千家がどのようなプロセスを踏んだか、がテーマである。 忠臣蔵のように浅野家の当主が切腹になるとお家断絶みたいにイメージするが、徳川時代のおとり潰しとはちょっと違う。
利休に難癖をつけ、切腹させたが秀吉はどうも寝覚めが悪かったらしい。 相手は武士ではないし、利休に味方した武将も多かったし、争点が今一つ鮮明でないのに、下した命令だったから。 そのため、お預けの処分をした利休の跡取り息子少庵をしばらくすると赦免し、その子(利休の孫)宗旦に利休から取り上げた道具類を返す。 じゃあ、めでたし、めでたしじゃないかというと人生はそう甘くない。 この後、宗旦は20年もうつ病(文献には「懸念の病」とある)で逼塞する。 そして秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いや大阪城落城や島原の乱が終り、3人の息子達が四国松平家、紀州徳川家、加賀前田家に仕官(茶頭として)したことを見届けて亡くなったとのこと。 20年間以上も宗旦はいったい何を考えていたのだろう?
千家はそもそも堺の商人、鉄砲の販売に加担したかもしれないが、参戦したわけではない。 時代の後押しもあって商人の身分から権力者の接待主任にお祖父さんがなったのだが、武器を振り回して誰かを傷つけたのでもなく、策を弄して騙したわけでもないのに、切腹。 その後の歴史的権力闘争、忘れてはならないキリシタン禁止という思想統制。
激変する時代には、身体的に傷つかなくても精神を壊すことは確実に増えそうだ。 そもそも人が人と会い、話し、互いの出会いや時間を共有することは楽しいことでそのための茶、だったはずが、そしてやっかいなことにその茶をどうするのか、先頭にたって、道を作ったのに、利休一代でなく、三代まで、この有様では何とも気の毒なことだ。
しかしそれゆえ、今日、私は茶人見習として、茶とその周辺にある文化を楽しむことができる。 せめて、100年に一度の不況の時代に生きる私の周辺の人には、一服の茶を点て、一時、心をリラックスして頂こう。 うつ病にならないようにと祈ってしまう。
新鮮な魚、お茶、和菓子、ついでにお酒のある山陰に来てごしない(来て下さい)。
気分転換に最適です!
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