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u子の山陰便り 東京大空襲
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▲u子の山陰便り |
まだ生まれていない昭和20年3月10日の…
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まだ生まれていない昭和20年3月10日の出来事を私は幼いときから、知っている。 別に私が賢いというつもりでこんな書き出しをしているのではない。
この日は深夜空襲警報が鳴り渡り、東京の下町は火の海となり、鶯谷(現在の台東区)に両親と住んでいた母は避難場所を求めて逃げ回り、結局自宅近くの小学校に明け方たどりついたそうだ。 年齢が若く出征しなかった母の弟は自警団として火の手のあがった家屋の消火ではなく引き倒すために歩きまわり、煤で汚れた顔をして同じ小学校にやっとの思いで到着してお互いの無事を確かめあったという。 この話を数えきれないほど聞いた。 父の家族は本所深川(現在の江東区菊川)で“被災したらしく”、私からいえば父方の祖父母、父の弟である叔父二人、一晩で行方不明となった。 その後、63年たっても名乗りを上げて貰えないから、“被災したらしく”は“被災した”のだろう。 しかし単純に“被災した”と私は今も言いきれない。 戦地にいた父は無事に帰還し、母と結婚し、現在は、姉と私と弟がいる。
「夏休みにおばあちゃんの家に行くのよ」 「おじいちゃんとおばあちゃんがウチに来るのよ」 「これはおじいちゃんに買ってもらったの」 と祖父母とのことを小さい頃より友人たちから聞くたびに、それがどんな様子なのか、私には想像がつかない。 今は“おばあさん稼業”もしている私だが正当おばあさんかどうか、お手本がないため自己評価ができない(‘;’)
何十年前になるのだろうか。 大学生になって飯田橋にあった出版社でアルバイトをしていた3月10日の昼食時間に、その会社を抜け出して、総武線両国駅近くにある震災記念堂に行った。 毎年ここで慰霊祭が行われているからだ。 当然昼休憩の1時間では足りずバイト先でどこに行ったか聞かれたけれど答えられず上司に叱られたが、自分自身は納得していた。 両親は3月のお彼岸に、祖父母と叔父たちの法事をしていたが、私は祖父母、叔父達の命日は3月10日だと思っていて、お葬式をしない人の法事には何ともしっくりしなかった。
東京大空襲で亡くなった人は10万人以上と言われる。 でも慰霊のための建物はなく、関東大震災の時に亡くなった方々との同居で震災記念堂(関東大震災で亡くなった方々をまつっている)に祭られている。 戦地で亡くなった人の靖国神社、無名戦士を祀る千鳥が渕墓苑は周知されているし、靖国神社での戦犯合祀の議論があるのは有名なことだ。 しかし東京大空襲で亡くなった人は何とも肩身の狭いところに今も眠っておられることは余り知られていない。
今年の3月10日は島根にいて珍しいことに東京大空襲のことが報じられた全国放送をみた。 空襲でなくなった人にもいつかきっと目が向けられ、戦争犠牲者慰霊記念堂みたいな建物が建てられすべての戦争で命を落とした人の供養ができるといいのに、と願う。 そうすれば、戦争犠牲者は千の風になって、今生きる私たちの幸せのために吹いてくれる気がする。
今月は島根発東京便りになりました。
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