6+9=15という何でもない数式に8月と添えると日本人なら何を言いたいかわかるでしょう。 島根県中部の雲南市三刀屋(みとや)町にその人の記念館がひっそりと建っています。
|
明治41年2月松江に生まれた彼は両親が三刀屋に移り、医院を開業したことで多感な時代をこの三刀屋の地で過ごし、大学は長崎医科大へ。 戦前のこと大学生向きワンルームマンションなどない時代、大学近くに下宿し大家さんのお嬢さんを見染めます。 大変よくある話です。 大家さんは敬虔なクリスチャン、その影響で洗礼も受けます。 これも少しはある話です。
一時的に聴力が落ちたことで内科医ではなく放射線医学を志し、当時大流行の死病といわれた肺結核患者の治療にあたります。 戦況悪化と共にレントゲンフィルムが欠乏し、レントゲン撮影の時に直接画面に接して患者の容態を見、放射線を浴びます。 プロとして当然危険だと知りながら患者を救いたい一心で。
体の不調から自ら検査をしてみれば、白血病にかかっており余命3年と診断されます。 このへんからはもうどこにもある話とは言えない人生です。
|
昭和20年8月6日に続いて9日に長崎市内に落とされた原子爆弾。 浦上天主堂前にある長崎医科大の中で彼は被爆します。その瞬間を、“体がふわりと浮いて、研究室の中のすべてのものが破壊された”と記述しています。
・・・
浦上天主堂といえば、長崎平和公園に隣接した爆心地に他なりません。 被爆し、負傷したにもかかわらず、被災者の治療にあたります。 すでに病人であり、余命まで宣告されていたことも意に介さず。
|
その人の名は永井隆。
自宅焼け跡に戻ったのは11日。妻緑はロザリオを胸にしたまま、あの世に旅立っていました。 それからまた不眠不休の治療活動。過労のため失神して危篤状態になりますが奇跡的に回復。バラックに住みながら、専門家の立場から「原爆報告書」を書き医大に提出します。
21年1月に長崎医大教授となりますが7月に倒れ以後病床につきますが友人らによって建てられたわずか二畳の家で執筆活動に入ります。「人類は己の如く人を愛せよ」の言葉から“如己堂”と名付けます。
|
三刀屋にある永井隆記念館には多くの遺稿が展示されています。 今のようにメールもファックスもなかった時代、ユーモラスなイラストの添えられた葉書や書簡がたくさんありました。 その一節 “病床は人生の冬、そこで蓄える成功力。やがて時至れば新しい芽をふき見違えるような活動をする。たまには病気するがよし”
21年8月「長崎の鐘」脱稿。のちにベストセラーになり映画化されます。 倒れてから昭和26年5月逝去までの6年間で17冊の著書を著します。
彼が亡くなって57年目の今年、仕事がうまくいかないから、いじめにあったから、はたまた顔がよくないからと何ら関係のない人を巻き込む殺人事件が起きます。 自分の思い通りにいかないことが理由で無差別に人を殺してしまう行為は戦争以下だと思えます。 人は自分の力だけで生まれ、自分の力だけで生き続け、自分の力だけで死んでいくことのできない生物です。 だからこそ、人と人の間で生き、命を尊ばねばなりません。
記念館に立つ胸像の顔を見ればイケメン。その表情から、英国の作家ディケンズの「長く生きるより、よく生きよ」の言葉を想起させる潔ささえ伝わってきます。
新しき平和の光さしむける荒野に響け長崎の鐘 (時世)
三刀屋町に立つ記念館を訪れた人にはきっと長崎のアンジェラスの鐘の音が届いたと思います。
|