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u子の山陰便り 松江開府400年祭武者行列
u子の山陰便り 松江開府400年祭武者行列
▲u子の山陰便り


 
写真

 島根県の県庁所在地である松江市は松江城天守閣のある美しい城下町。
今年はこの松江開府400年という年にあたり、5日に武者行列があると聞き出かけた。
昨年石見銀山が世界遺産に登録され島根県の観光事業は活気づいている。

 松江が城下町としてスタートしたのは1607年。
関ヶ原の戦いで戦功があった堀江吉晴が徳川家康からご褒美として出雲・隠岐の地を与えられ領主となって最初に居をおいたのは現在の安来市広瀬町の月山(がっさんと読む)富田城だ。
関が原の戦いは1600年秋で、歴史の年号も大変覚えやすいから、その軍功で領主になってから6、7年も何をしてたの?とご指摘がありそう。
写真 広瀬は山陰の鎌倉とよばれている山間の町で、さして平地も広くなく、交通の便も悪い地域。
一言でいえば、守りにはよいが発展していくには今一つという場所だった。そこであちこち領土内を探し松江の地が今後の政治経済の発展にはよいと判断し、城下町の建設をしはじめたのが1607年だとのこと。
調査と決断、着工に6、7年かかったということらしい。
何せ月山富田城は戦国時代石見銀山の利権を巡って毛利氏と果敢に戦った尼子氏の居城だったことからも想定できるように、戦闘を考えて居城を造るなら最適な土地だ。
松江地区は宍道湖畔で出雲平野まで広い敷地はあるが、もし戦いともなると敵軍は侵入しやすく、迎え撃つ場合、隠れる場所もないということで堀江吉晴も結構悩んだと想像できる。
写真 地元では堀江吉晴はよく知られている武将だが、googleやyahooで検索しても詳細にはわからないかもしれない。
というのは、堀江吉晴は一生懸命に城を築き町を整備したけれど、3代目の忠晴の時代になってから嗣子がなく彼が亡くなった1634年にお家断絶してしまった不幸な結果だったからだ。
この後京極氏が一代だけ支配しまたお世継ぎがなく断絶。
その後は徳川家の親戚である松平家の領土になった。
(江戸中期から松江藩は疲弊し、大阪商人に借金をしたが見事に返済したことは、山陰便り18【松江城大茶会】に書いた)
写真 このような運命だった松江市民のご先祖様ともいうべき堀江吉晴の業績を讃え、お祭りをし、一緒に観光事業をもりたてようという開府400年祭だ。
 5日は白潟天神を12時30分に出発し、小泉八雲が夕日を見るために人力車を走らせたことで有名な松江大橋を渡り、東京橋(とうきょうばし、ではなく、ひがしきょうばし)を過ぎ県庁前を通って松江城までの1.6キロの道を約2時間半ほどかけて武者行列が通過した。
写真 この行列は、乗馬姿の殿様に扮した人から長刀隊、弓隊、鉄砲隊、桜の枝を持って進む綺麗どころや牛車をひいたお公家さんまで市民230名が構成していた。
 松江城は戦いを一度もしなかった城。幕末の長州征伐があっても松平家の城だから通過点でしかなかった。

「戦争をしなかった城下に住んだ山陰の人は穏やかで、一歩外に出て戦うことがない。堀江一族がずっと支配したなら彼のDNAはきっと受け継がれて勇猛果敢なはず、もっと現代にも活躍するのに」
などと私はひそかに考える。
しかし待て、その時に評価されずとも、人は堀江吉晴のように400年後再評価がされるかもしれない・・・。

 イケメンの武者も高校生もハンディをもつ人も松江美人もほら貝の音に促され、鐘や太鼓の音に合わせ楽しそうに行進していた。このイベントの準備や練習に報いるかのような晴天で桜が満開だった。命をかけて戦いぬき、出雲・隠岐の領主となった堀江吉晴は草場のかげで400年後にこのように奉られ、どのような思いでおられるかちょっと聞いてみたい気がした。
掲載者u子
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